吉田蔵澤

   吉田 蔵澤                              教育学部美術教育   奥定一孝

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 吉田 蔵澤は、享保七年(一七二二)松山藩士吉田直良の長男として生まれ,生涯その藩士
として生きた武人である。絵はあくまでも余技として、画壇の人脈や流派の規範から脱して,
豪放無比、奔放自在な墨竹表現の独自の境涯を歩んだ画家である。
 蔵澤の墨竹は松山の宝といわれ、昔から珍重されてきた。正岡子規も蔵澤の墨竹をこよなく
愛し、根岸庵の床に常掛とし、「蔵澤の竹も久しや庵の秋」などの句を残している。
 江戸中期の日本南画の隆盛期には、地方にあって独自の画風で名をなす南画家が現れるが,
蔵澤も松山にあって日本南画大成の先駆者の一翼を担った一人に数えられている。このことは
永年愛媛大学教育学部教授として教鞭をとられた、故石井南放先生の研究に負うところが大きい。
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 松山藩士としての要職は比較的遅く,宝暦十三年(一七六三)四二才になって現在の北条市
である風早郡の代官職に任ぜられている。直裁、豪放な墨竹の表現に共通する蔵澤の行政手腕
に関する逸話が多く残されており、その名代官ぶりを今に伝えている。六○才をすぎて松山藩
の中央政治に参画、者頭にまで昇進したが,七○才も後半を過ぎる頃,ある事件に連座したと
して隠居を命ぜられ、父祖伝来の食録を剥奪されることになる。
 しかし蔵澤の作風は,これを期にいよいよ円熟期をむかえる。晩年の墨竹の作品にみられる
激しい誇張や冴え渡る筆触には、狂おしいばかりの緊張感があり,この事件の処分に対する憤
懣を墨筆に託するかのようにますます豪放洒脱な蔵澤墨竹の本領を発揮、快作を数多く残して
いる。
 また蔵澤の円熟時代に愛用した雀印は、もと宮本武蔵が愛用した印章との伝承がある。
 享和二年(一八○二)八一才で松山に没している。
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