ほとゝぎす − 極堂・碧梧桐・虚子



 明治30年1月15日創刊。三十頁ばかりで一部六銭。部数300部。柳原極堂主宰。
 松山市立花町ほとゝぎす発行所より松山松風会を母胎に明治31年8月31日発行の第20号まで松山において発行された。
 創刊号で子規は 「ほとゝぎすの発刊を祝す」 として次の句を詠んでいる。

新年や 鶯啼いて ほとゝぎす   (子規子)

 明治32年10月発行(第弐巻第一号)から虚子が継承し,東京へ移り,中央雑誌として再出発した。
 子規は「ほとゝぎす発行所を東京に遷す事」で次のように述べている。
 余死すとも固よりほとゝぎすは死せざるべし,しかもほとゝぎす死するの日は即ち是れ余の死するの日ならざるべからず,ほとゝぎすは余の生命なり。
 子規門の双璧と称された 碧梧桐虚子は松山中学校の同級生であり,京都第三高等学校入学時には,同じ下宿に住み,「虚桐庵」と称するほど親しかった。明治27年ともに退学して上京,子規庵に入る。
 明治35年9月19日(陰暦十七夜の月),子規が享年36歳で没する。

子規逝くや 十七日の 月明に(虚子)

 子規没後,碧梧桐が子規の「写生」を離れ,はげしく新風を求めて新傾向の道を探り定型や季題にとらわれない自由律の句をつくるようになる。後これは,朱燐洞や山頭火へと展開していく。
 一方虚子は明治38年,「ほとゝぎす」に漱石の「吾が輩は猫である」を発表し自ら小説に力を注いでいたが,大正2年碧梧桐の新傾向について「季題十七字破壊の傾向」として対抗し俳壇に復帰する。
 この時の決意を詠んだ句が番町小学校の句碑として残っている。彼は平明で余韻ある句をも求め,客観写生を唱え,「ほとゝぎす王国」といわれる俳壇の一大勢力を形成する。
 碧梧桐は,昭和8年還暦祝賀会席上で,俳壇引退を表明し,昭和12年に没する(65歳)。虚子は彼の死に際し,前書きに「碧梧桐とはよく親しみよく争ひたり」として次の句を詠んだ。

たとふれば こまのはぢける 如くなり   (虚子)

 また極堂は,明治39年伊予日日新聞の編集長のち社長として昭和2年まで務め,昭和7年,東京で俳誌「鶏頭」を創刊し,昭和17年118号で廃刊。明治28年子規が帰松し,松山周辺と散策したときの「子規遺稿散策集」を,近藤我観が預かっていたのが発見され,昭和8年「鶏頭」第ニ巻第九号に公表されたことは,あまりにも有名な話である。
 昭和18年,極堂の提唱で「松山子規会」が発会した。この会は俳人のみならず市の官民一体となって人間子規を顕彰することを中心として現在に続いている。昭和56年松山市子規記念博物館が開館したのも,俳句愛好者から全市民のための子規への潮流の一つである。
 昭和21年秋,俳誌 「ほとゝぎす」六百号記念句会が正宗寺で開かれた。小諸の疎開先から,虚子も帰省し,席上極堂の提案で虚子の句碑建立がきまった。昭和26年,子規50年祭の年,85歳の極堂は,その式典で虚子と共に挨拶をした。
 極堂は昭和32年10月7日(陰暦8月14日)90歳で没した。

十四日 月明らかに 君は逝く   (虚子)

 虚子は,この2年後,昭和34年84歳で没する。彼を師事して松山に住みついた酒井黙禅は,「愛媛ホトトギス」会長として,伊予の俳壇に貢献した。
 また,東大俳句会に入会し「ほとゝぎす」に投句した中村草田男も松山出身である。
 「ほとゝぎす」は,虚子のあとは長男・年尾,そしてその娘稲畑汀子に引き継がれ,昭和55年4月号をもってついに一千号に達した。