(同郷の子規にすすめられ,二十歳の時詠んだ処女作)
明治2年9月5日〜昭和23年10月10日
明治19年末に上京,子規と子規の叔父藤野漸の推挙で常盤会給費生となる。一高時代には,子規らと毎日のようにベースボールをする。
卒業後大蔵省に入り,第4代寄宿舎監督として郷党の育成に尽力した。
大正3年貴族院議員,同5年大蔵大臣,昭和3年には文部大臣を歴任。著書に「宰洲句日記」などがある。
明治20年7月下旬,正岡子規は,勝田主計の紹介で,柳原極堂とともに大原其戎を訪ね,俳諧の指導を受けた。
子規は後年,「俳句を作るは,明治20年,大原其戎宗匠のもとに行きしを始めとす」と書きしるしている。
大原其戎は,明治13年1月俳諧結社「明栄社」を組織して,月刊俳誌「真砂の志良辺」を発行した。これは,全国でも三番目に古いものである。
子規初期の句が,「真砂の志良辺」の中に44句載っている。その当時,本名の「常規」をもじって「丈鬼」と称していた。
明治23年には,他県の図書館の数字をあげて,松山に図書館を設ける必要性を訴えた。