興聖寺


梅てのむ 茶屋も有へし 死出の山

(大高)子葉


 吉良邸を襲撃して本懐を遂げた赤穂義士47人のうち,大石主税(ちから)以下 10名は江戸の松山藩邸に預けられ,翌元禄16年(1703)2月4日同邸にて自刃した。
 そのうち,大高源五(32歳)と木村岡右衛門(46歳)の切腹の介錯を,徒目付(かちめつけ)の宮原久太夫頼安が行った。
 この両名と親しい縁で,久太夫は,同家の菩提寺の興聖寺に墓を設け,厚く弔ったという。

 大高源五は,其角の弟子で俳諧をよくし,「子葉」と号した。
 この句は,彼の辞世の句である。

  鶯や 主税今年 年十七   子規 (明治26年)



赤穂事件元禄15年(1702)12月14日,主君浅野内匠頭長矩の恥辱をそそぐため,家老大石内蔵助良雄以下家臣四十七人が,吉良上野介義央を討った事件