正岡子規 生い立ちの家跡



くれなゐの梅散るなへに故郷に
つくしつみにし春し思ほゆ

子規

「此の碑は松山子規会の発意に基づき、立川明氏の義損を得、子規居士五十周年を記念として其邸址に建て、以て住居武士の文績を不朽に伝ふるものなり。
昭和廿六年九月十九日 松山子規会建立」


 俳聖子規が、2歳から明治16年17歳で上京するまで住んでいた家がここにあった。
 我が国最初の子規の歌碑で、文字は「仰臥漫録」の文字を拡大したもの。
 明治35年(1902)3月10日、伊藤左千夫が紅梅の鉢をもって子規を見舞いに来た。
 3月26日、「紅梅の下に土筆などを植ゑたる盆栽一つ、左千夫の贈り来しをながめて朝な夕なに作れりし歌の中に」と詞書きして、この歌以下11首を「日本」に発表した。
 碧梧桐が土筆を摘みにいった時にも、

「つくつくし 故郷の野に つみし事を 思ひでけり 異国(ことくに)にして」

など13首を、この4月4日に発表している。いずれも「仰臥漫録」にも載っている。病床の子規は、梅につけ土筆につけ、故郷を思ったのである。
 また子規は「つくし」が好きだったらしく「つくしほど食ふてうまきはなく、つくしとりほどして面白きはなし。」ともいっている。