石手寺 三重塔北



祭芭蕉塚 (花入れ塚)

宇知与利氏波奈以礼佐久戻牟女津波几
(打ち寄りて 花入れ探れ 梅椿)

(芭蕉)


 高さ2m の柱形の石である。
 この碑は,元禄5年(1692)12月20日に,芭蕉翁,其角,桃隣等六人が青地彫棠(ちょうとう)の寓居に会して連句の会を催した。この時の芭蕉の発句がこれである。
 探梅といえば野外の梅を探るのであるが,はからずもその席に早咲きの梅,椿が活けてあるのでさあ寄って来てこの花入れの花を賞したまえ」の意味で,以下三六句続くのである。
 これを記録した懐紙を彫棠に親しく,其角の弟子でもあった越智擲瓢(てきひょう)が譲り受け,その子麦邑(ばくゆう)を経て,孫の蓬生庵青梔(ほうせいあんせいし)が,芭蕉没後77年目の明和7年(1770)にこの懐紙を霊代(たましろ)にしてここに埋め,この碑を建てたもので「花入れ塚」と呼ばれている。
 松山市内12基ある芭蕉の句碑のうち,太山寺の「柳壟」についで二番目に古いものである。
 芭蕉の塚は,この他に「亀水塚」(不動院)「霜夜塚」(久万太宝寺)「桜塚」(厳島神社)あら株塚(三穂神社)などがある。
 隣には,宇都宮丹騎鶴の句碑がある。


「連歌」 我が国の詩歌形態の1種で、中世に流行した。
古くは、和歌の上の句と下の句を2人が唱和したもの−即ち短連歌がもっぱら行われた。
平安時代後期頃から多人数または単独で上の句と下の句を交互に連ねたもの−即ち長連歌に発達した。その第1句を「発句」、次を「脇」、第3句を「第三」、最終の句を「挙句」という。
また、亨禄・天文の頃、山崎宗鑑・荒木田守武が賀出て滑稽・洒落の作風を開いた。これを俳諧連歌という。