大原観山邸跡 (三番町)

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故郷は いとこの多し 桃の花 |
子規
(明治28年) |
子規の父方の親戚は、佐伯家、歌原家などあまり多くなかったが、母方の大原家の親戚はかなり多かった。
桃の花の咲いている時分に親戚の者が、なにかにつけて会合するのを詠んだ。
大原観山は三津、加藤重孝の次男、本名有恒。
姉艶枝が嫁いだ大原恒固との間に子がないため、観山が、大原家の養嗣子となり、歌原家の長女重(しげ)を妻に迎え、二人の間に四男三女をもうけた。
その長女八重が正岡家に嫁して子規を生んだ。
大原観山は、子規の外祖父にあたる。
観山は、藩の「明教館」に学び、江戸に出て「昌平校」に学んで帰り「明教館」の教授となった。
廃藩後は、この地に家塾を開き、子弟を教育した。
子規は6歳の時、父を失いその後は、母と祖父の観山に可愛がられて成長した。就学前の子規も、明治6年、七歳の頃、三並良(はじめ)とともにここで 漢学の素読の講義を受けた。
観山の長男は早世し、次男恒徳が大原家を、三男恒忠(号・拓川)が父・観山の生家加藤家を嗣いだ。恒忠はこの家で育ち、後松山市五代目市長になった。
明治8年4月18日 没 57歳。墓は来迎寺にある。
明治28年 観山翁の墓に詣でてとして 次の句がある。
朝寒や ひとり墓前に うづくまる 子規