「きせんとゐや久保田」の標石 (三津浜)



酒ありめしあり十有一人秋の暮

子規

三津久保多(田)にて  明治28年 秋

 三津三丁目4と6の西寄りの辺りは,昔は遠浅の砂浜で御舟手番所があり,松山藩主の参勤交代の折りはここから乗船した。 その番所を窪田高平が無償払下げをうけて汽船回漕店を始めたのは,明治4年(1871)12月のことであった。 当時の本船は沖合に停泊し,旅客は和船で本船へ乗り移ったのである。
 「きせんの里ば,きせんとゐや久保田」の標石は,三津三丁目4の北角にあった。
 漱石は,明治28年4月9日午後ニ時ごろ神戸からの汽船で 三津浜お台場(砲台のある場所)へ上陸した。 明治29年4月11日熊本第五高等学校へ転任するとき,高浜虚子と二人広島へ出帆したのもこの地である。
 この地はかつての汽船問屋久保田があり,宿屋もかねており,漱石や子規をはじめ多くの旅人で賑わった場所である。 明治16年17歳で上京から9回,松山に帰省した子規を「きせんの里ば,きせんとゐや久保田」の標石は,あたたかく見送りまた懐かしく迎えたに違いない。
 子規は明治28年10月17日,漱石,極堂ら十八人で送別会を催したあと松山を立って上京の途につくため,その日三津浜久保田回漕店に宿泊した。 18日,叟柳松風会員十人が子規をたずねてにぎやかに別盃をくみかわした。
 これがこの標石を見た子規最後の帰省となった。