河東碧梧桐墓所  (宝塔寺)


墓は故国に都建碑や帰る雁

碧梧桐
(明治45年)

碧梧桐墓        (正面)
河東乗五郎  六十五歳 (裏面)
昭和十二年二月一日逝  (裏面)
碑表  故人生前書
碑脊  梅林寺比丘良哉

 碧梧桐が腸チブスに敗血症を併発し,昭和12年2月1日永眠した。65歳。その日は雪が降っていたという。
 告別式は,5日,門下の喜谷六花(りっか)が住職である東京台東区の梅林寺であった。
 お骨は,生前の碧梧桐の意志を受けて,故郷松山の父母の眠る西山宝塔寺墓地に埋葬された。(右の画像の左側が亡父静渓(せいけい)の墓)。なお梅林寺にも墓があり,分骨が埋葬されている。
 「碧梧桐墓」の四文字は碧梧桐晩年の自筆。
 碧梧桐自筆の墓銘について,昭和15年2月,大阪の俳人亀田小蛄は,次のように語っている。「この墓銘はこの(松山)地の先生の侍者だった故藤田杉晩君が生前,来松中の先生に『先生,私の墓銘を書いてください』というのを引き取って『イヤ君は若い,僕のを書いておこう』と即座に揮毫されたものの是であった。」と。

碧梧桐の書
碧梧桐の書は,六朝書といわれ独特の書体であり,当時は風変わりな絵のようだともいわれたが,新傾向俳句が全国を風靡して,自由律俳人たちが競って傾倒するようになった。
最初,碧梧桐は子規の書をお手本としていたが,明治40年1月,友人の中村不折より中国の六朝時代の石碑と拓本を送られて,その力強い書体に感動し,今までの筆法と違った六朝風のゴツイ字を書くようになった。碧梧桐の墓の文字はその代表的六朝書である。