森 円月生家邸跡 −叔父が家周辺−



森 円月生家邸前の道
子規が通った森河北邸の裏道


   籾(もみ)ほすや 鶏遊ぶ 門のうち   子規 

 森円月(本名次太郎)は,明治3年(1870)に,温泉郡余土村余戸に生まれる。
 子規よりも三歳年少,松山中学を経て同志社大学そしてアメリカのエール大学へと進んだ。その後,松山中学,兵庫県柏原中で教鞭をとる。
 子規の父の兄の佐伯政房が,廃藩後,余戸の妻の実家・森源蔵の家に郷居していたが,少年子規は妹の律と二人でよく泊りがけで遊びに出かけた。
 散策集

   「鳩麦や昔通ひし叔父が家」

の家とは,正しくは「伯父が家」のこの家である。
 その家の東隣りが,子規より三歳年下の森円月の家であり,子規とは幼ななじみの遊び仲間であった。
 散策集によれば,明治28年10月7日,愚陀仏庵を人力車に乗って出かけた子規は今出の霽月邸を訪ねての帰り,夕暮れに,円月の家に寄り,「柱かくしに題せよ」といわれて

   籾(もみ)ほすや鶏遊ぶ門のうち

の句を詠んだ。
 また,明治43年漱石修善寺の重患後,見舞いとして円月から蔵沢翁の竹を進呈したところ,漱石が非常に喜び礼状と短冊が送られてきた。

   蔵沢の竹を得てより露の庵  漱石

 円月は,姉婿森河北らと蛙友会(あゆうかい)を作り地元俳句の発展につくした。
 渡米中友人子規を失った。

   雨の夜を 村の子規忌や 五六人   円月 (昭和24年)

代表句

   雷遠く 夕立土佐へ はづれけり

昭和30年没 85歳。