惣河内神社 (東温市 川内町)



山屏風 春の炬燵に こもるかな

東洋城


 昭和31年12月16日 郷土の白猪吟社を中心に渋柿同人が松根東洋城の揮毫を得て建立し惣河内神社に奉納したものである。
 東洋城は,終戦後郷里の宇和島や松山へしばらく帰省していたが,特にこの三内の山村を愛でて,遂にこの神社の社家佐伯氏の宅に一畳庵を結んで,ひたすら俳誌渋柿の選句,指導に専念した。
 この「山屏風」という語も河之内の屏風を立てたような山容からとった新語である。

 社家の庭池の周りには,年二回開花されるといわれる「百日桜」がある。その名は,東洋翁の名吟

   「春秋冬 冬を百日 桜かな」

からとる。
 翁は,昭和25年夏から昭和27年春まで再度来山し,社務所座敷の一畳庵に結んで,渋柿同人を指導,自らも,壱百余りの句を残した。
松根東洋城と俳誌「渋柿」

松根東洋城 明治11年(1878)2.25〜昭和39年(1964)10.28 86歳

東京築地で父、権六(司法官・旧宇和島藩家老松根図書の長男)、母、敏子 (旧宇和島藩主伊達宗城の次女)の次男として生まれる。本名豊次郎。
松山中学、第一高等学校、東京大学を経て、明治38年京都帝国大学法学部を卒業。 松山中学では1年下に安倍能成(後の文部大臣)がおり、5年生のとき 夏目漱石が英語教師として同校に赴任、漱石とのつながりはここに始まる。 第一高等学校に在学中、熊本の第五高等学校の漱石に俳句の指導を受け、 子規庵にも出入りし、明治33年初めて「東洋城」と号した。
子規没後、明治39年3月より、虚子らと「俳諧散心」と称する「定型俳句を守る会」 を度々開いたが、東洋城は「写生」一筋の道にあきたらず「子規より芭蕉へ」 心が傾き、大正4年,38歳のときに俳誌「渋柿」を創刊した。

彼は,明治41年「国民新聞」の「国民俳壇」を虚子より引き継いだが, 「小説」から「俳壇」へ復帰した虚子が「国民俳壇」の選者も占めたため 東洋城は選を退いた。 また,「感有り」と題して「怒る事知ってあれども水温む」 の句を作って「ホトトギス」と袂を分った。

彼は、伝統的な品格を重んじ、幽玄・枯淡を好び,折目正しい人であった。 俳諧を究め尽くした偉大な芭蕉の心を行じた人であった。
いわゆる「難行道」を行じることによって自然と一帯となり, 自在無碍の境地で生命をとらえる−そのようなきびしさが,彼の主宰する「渋柿」にはあふれていた。
しかし,その半面,「黛を濃うせよ草は芳しき」の如き潤いのある象徴的な句を詠み, 歌舞伎にも精通し,「勧進帳」を観て, 「みちのくを指すとは旅の余寒かな」のような新境地を拓き,注目をうけた。

昭和27年,75歳の東洋城は隠退し,「国民俳壇」以来の誠実な弟子 野村喜舟に継いだ。昭和29年,77歳で芸術院会員となった。
「小春空天冠浮び降りけり」「花陰や芭蕉漱石寅日子も」 (「寅日子」は熊本五高以来の漱石の愛弟子寺田寅彦(吉村寅彦)のこと。) 一生妻帯せず、独身・清貧のうちに一生を終えた。

「渋柿」は平成6年4月号で960号に達した。墓は,宇和島市金剛山(大隆寺)にある。