俳誌:ほとゝぎす 創刊の地(極堂宅跡)



俳誌「ほとゝぎす」 創刊の地

新年や 鶯啼いて ほととぎす

(子規子)


 「ほとゝぎす 」(現:ホトトギス)は,明治30(1897)年1月,子規の友人柳原極堂が子規派の俳句結社松風会を母体に,自宅を発行所として創刊した。
 これまで極堂邸は「立花町五○番戸」というだけで,番地は不明であったが,市子規記念博物館の研究により六三番地と判明された。同館では,明治時代の地図から句碑建立の場所から数メートル南東に位置すると特定した。(平成9年11月11日 愛媛新聞から)
 子規は,明治22年(1889)5月9日,23歳の時突然喀血した。
 翌日,肺病と診断されたがその夜

   卯の花をめがけてきたか時鳥(ほととぎす)
   卯の花の散るまでなくか子規(ほととぎす)

 という句を作る。
 時鳥は,啼いて血を吐く時鳥といわれて,肺病の代名詞でもあった。
 花開いた青春まっただなかの卯年生まれの子規に,突然肺病がやってきたのである。その夜,子規はこうした時鳥の句を四,五十余り作り,以来子規と号するのである。
 ほととぎすは,時鳥・子規・不如帰・杜鵙・蜀魂などを当てるが彼の本名常規(つねのり)の一字が入っていたから,子規を選んだといわれる。
 子規という一見風流な雅号には,あと数年しか生きられないという悲痛な思いが託されているのである。その十年余のち,明治35年(1902)9月19日,36歳彼は帰らぬ人となる。

   俳病の 夢みるならん ほとゝぎす 拷問などに 誰がかけたか

(死の二日前まで随筆「病牀六尺」を新聞「日本」に連載。その最後の文章。百二十七回 明治35年9月17日)
「病牀六尺」(明治35年5月5日〜9月17日):新聞「日本」に掲載
−病床六尺,これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。− の見出しで始まる。
連載が百回を数えたとき,子規は百日(明治35年8月20日当日)生きたことを喜び文章の最後をこう結んでいる。
− 半年以上もすれば梅の花がさいて来る。果たして病人の眼中に梅の花が咲くであろうか。−