
明治34年7月24日、清国(中国)福建省厦門(アモイ)の日本領事館で、父修(当時清国領事)と母ミネの長男として生まれる。本名清一郎。
4歳のとき母と郷里松山に帰る。大正14年松山中学、松山高等学校より東大独文科に入学。昭和4年29歳のときに虚子に就き、東大俳句会に入会、水原秋桜子の指導を受けて「ホトトギス」に投句。
「降る雪や明治は遠くなりにけり」など名句が載る第一句集「長子」が出版されたのが昭和11年のことであった。以後彼の俳風は人生と深く相渡ろうとする苦闘のあとを示しているところから、「人間探究派」と呼ばれ、石田波郷、加藤楸邨もこの派の俳人である。松山中学で同期であった二神伝三郎(元校長)とのゆかりで、松山北高等学校の校歌の歌詞もつくっている。
草田男の主宰する月刊俳誌「万緑」の誌名は、彼の句集「火の鳥」(昭和14年刊)の中の句「万緑の中吾子の歯生え初むる」に因んだもの。この句以後、「万緑」は新しい季語として定着した。また、草田男主宰誌としても永遠の青春性を持つ人々の集まりをシンボルすることとなり、今日まで堅実な前衛としての歩みを続けてきた。