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| 晩年 | 海南新聞時代 |
柳原極堂(1867-1957)は、伊予国温泉郡北京町に父、権之助、母トシの長男として生まれた。本名正之。
明治14年松山中学に入学、後に子規と謀って中退。明治16年上京して明治22年共立学校(後の開成中学)を卒業して帰松、海南新聞社に記者として入社した。
明治27年野間叟柳らが結成した「松風会」の会員となり、翌28年子規帰郷のときは連日のごとく子規の指導を受けた。明治29年子規から号を「極堂」とするよういわれ、 以後これに従った。
明治30年子規と共に松山で月間俳誌「ほととぎす」を発行、21号から東京の虚子に引き継がれた。
人となりは無私無欲、氏の生涯は子規顕彰の一ことに捧げられた。
昭和32年10月7日 90歳で没。