左は明治33年12月24日,蕪村忌の日,東京上野上根岸の家
(根岸庵)で単独撮影した,時に34歳,子規最後の写真をイラスト化したものである。
右側の絵は,子規自身が水彩画で描いた自画像で,左の写真と同じ年の1900年(明治33年)に描かれたものである。(水彩画,384×260,1900)
わが郷土,松山の生んだ俳聖正岡子規は,慶応三年九月十七日,松山藩士正岡常尚の長男として,松山市新玉町(現花園町電車通り西側)に生まれた。
幼名を升(のぼる)といい,明治6年に末広学校(のち智環学校と改称)に入学,まもなく開校した勝山学校に転校した。勝山学校は幾多の変遷を経て,明治20年代に松山第一尋常小学校となり,つづいて現在の番町小学校となったのである。その場所は旧藩校明教館(現NTT)にあった。
明治25年5月勝山学校隣に松山高等小学校が開設された。明治16年5月,松山中学校(現松山東高)を中途退学して上京,大学予備校に入り,帝国大学文科に進み,ここでのち無二の親友となった漱石と知り合う。
明治25年8月中旬,子規を訪ねて松山に来たことのある漱石は,明治28年4月9日,愛媛県尋常中学校(松山中学校)の英語の教師として赴任。月給80円。(校長住田昇は,60円)きどや旅館に泊り,城山山裾の「愛松亭」に6月下旬までいた後,二番町横丁の上野義方氏の離れに転居して,「愚陀仏庵」と称し,自らを「愚陀仏」と号した。
この年,子規は,日清戦争の従軍記者として中国に行き,帰りの御用船の中で大喀血をして,5月23日より神戸で療養後,8月松山へ養生に帰り,この漱石の仮寓におしかけ,漱石は二階へ写り,子規は一階へ入り,約50日(8月27日〜10月17日)間ここに滞在した。この間,地元「松風会」の句会が子規を指導者として「愚陀仏庵」で連日行われ,漱石も誘われて俳句に熱中するようになる。
「愚陀仏庵」での二人の生活はわずかな期間であったが,このとき子規に学んだことは,漱石の文学の本能をかきたて,明治34年4月松山中学を舞台としてその体験記を記した小説「坊ちゃん」を発表した。桔梗いけてしばらく仮の書斎哉(子規)
愚陀仏は主人の名なり冬籠(漱石)
生涯最後となった旅をおえて10月末根岸の子規庵に帰った。柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺(子規)
一方,漱石も熊本の第五高等学校の教授となり,翌年明治29年4月11日,松山(三津浜)から虚子と広島行きの船に乗った。行く我にとどまる汝に秋二つ(子規)
御立ちやるか御立ちやれ新酒菊の花(漱石)
この後明治33年9月8日よりイギリスに留学し,子規没後の明治36年に帰国,一高東大英文科講師となり明治38年「吾輩は猫である」を「ホトトギス」に発表,以後文壇に偉大な業績を残した。わかるるや一鳥啼いて雲に入る(漱石)
永き日やあくびうつして分れ行く(漱石)