散策集


 子規遺稿「散策集」は,明治28年秋松山に帰省,漱石の仮寓・愚陀仏庵において病後療養中の子規が,周辺地区を散策した紀行集である。
 子規は,明治28年4月新聞「日本」の記者として日清戦争に従軍したが,5月休戦講和となったため帰航の途中船中で発病,重体に陥った。
 神戸病院に入院一時生死を危ぶまれたが回復し須磨保養院での療養後,8月25日病後療養のため郷里松山へ帰ってきた。
 あたかも学友漱石がこの4月から松山中学の英語教師として赴任しており下宿していたので,27日「ここがええ」といってころがりこんだ。そして漱石は2階に上がり子規はその階下を占領してしまった。
 漱石の別号愚陀仏にちなみ,この愚居を愚陀仏庵と称した。
 ここに予後を養うこと五十余日,この間,松風会員らの指導に任じたが,10月19日松山を発って東京に帰った。これが子規最後の帰省となった。
 帰京の日が近づくとともに,子規は松風会員を誘い,あるいは漱石を促し,あるいは単独で,松山近郊に前後5回の散歩吟行を試みている。
 その紀行句集を,二つ折半紙に筆書して一冊につづり,「散策集」と題していた。一面十行づつ書かれ俳句百四十二句が詠まれている。たまたま愚陀仏庵を訪れた少年時代からの友人近藤我観がこれを借閲し,子規帰京後もそのまま同家にとめ置かれて門外に出なかった。
 昭和8年6月,当時東京に在住していた柳原極堂が松山に帰省し,我観の病床を見舞ったところ,談がこのことに及んだことから,その存在がわかった。極堂は,よろこんでその筆写を求め,同年9月その主宰する俳句雑誌「鶏頭」の第二巻第九号,子規号誌上に公表し,はじめて世に出るに至ったものである。近藤家では,原本を大切に保存していたが,戦争中に被災をおそれて他へ疎開したところ,昭和20年7月の松山空襲に際し,同家は災禍をまぬがれたのに,かえって疎開先が被災し,「散策集」原本は惜しくも焼失してしまった。
 「散策集」が書かれた明治28年当時の面影は,この地方の発展や,戦災によって皆無のありさまとなり,わずかにこの「散策集」の記述によって往時を忍ぶ他ない。
 「散策集」は子規最後の松山での生活とその眼に映じた近郊の風物詠である。
 9月20日から10月7日の間5回散策に出かけている。
1. 9月20日 柳原碌堂(極堂)と名刹石手寺紀行
2. 9月21日 中村愛松・碌堂・大島梅屋と御幸寺山麓紀行
3. 10月2日 独りで市内南部石手川堤紀行
4. 10月6日 漱石と道後温泉行,宝厳寺に詣で,帰路大街道で狂言見物
5. 10月7日 村上霽月に誘われて今出訪問