霽月と漱石


 

村上霽月は, 松山市西垣生に明治2年生まれる。
明治24年夏,一高を在学一年で中退,郷里に帰り,今出絣会社の社長に就任俳句を始める。
明治28年漱石松山中学校へ赴任すると子規を通じて友人として交わり漱石の下宿愚陀仏庵を訪問し文学について語り,明治29年3月1日漱石もまた,虚子とともに今出にある霽月の家を訪ねている。この時3人で「神仙体」と称する句を作り,東京の「めさまし草」巻三に載せる。

霽月の「転和吟」とは,漱石集の漢詩をくりかえし読んでいる内,その感興がふと俳句になって出たのにヒントを得て,もとの漢詩につかずはなれず,漢詩から一転してしかもその詩句に呼応して和する俳句の一境地を拓いたものである。

漱石が松山を去り熊本へ赴く時,暇乞いを今出の霽月邸まで訪ねたが外出していなかった。 このとき漱石は惜別の句を書いた短冊を送った。

   逢はで去る 花に涙を 濺(そそげ)かし   愚陀仏

霽月が生前好んで書かれた句

   死ぬるまで 生きる命の 長閑なり   霽月

死ぬるまで 天命のあるまで 日々好日と のどかに生きていけばよい