加藤恒忠(拓川)


ふらんすに夏痩なんどなかるべし

子規



明治29年夏の作

 前書きに「仏国に写されたる叔父君の写真を見るにいたく肥えたまひければ」とある。

 叔父とは子規の母八重の弟加藤恒忠(号)のこと。彼は,安政6年(1859)大原観山(有忠)の三男として生まれ伯父の加藤家を継ぐ。

 また,拓川の三男忠三郎は,子規没後大正三年四月13歳で正岡家を継ぐ。「忠三郎」の名は拓川の幼名でもある。

   雀の子忠三郎もニ代かな

        明治35年 叔父拓川に三男誕生の子規祝句

 忠三郎については,司馬遼太郎氏の「ひとびとの跫音」で,描かれている。

 ベルギー公使,五代松山市長を歴任,大正12年没,65歳。

 子規16歳の時,はじめて上京するにあたり何度も手紙を出し,世話になる。また新聞「日本」の陸羯南に紹介してもらった。

 墓碑銘「拓川居士骨」(相向寺)の五文字は,死の直前に折りから見舞いに来た岩崎一高(松山市六代目市長)に書かせた。「拓川」は,松山市郊外を流れる「石手(てへん)川」に由来。