わが輩は猫である−子規・漱石・虚子




明治38年1月の「ホトトギス」の巻頭に漱石の,「わが輩は猫である」が掲載された。小説家夏目漱石の誕生である。
これは,明治37年持病の神経衰弱に陥った漱石に,虚子が気晴らしにでも何か文章をかいたらと勧めたのがそもそもの発端である。
写生文として書かれた,「わが輩は猫である」は,一回限りの予定であったが,頗る評判がよくその後十一回まで書き継ぐことになった。

漱石は「わが輩は猫である」の中編の序で,次のように述べている。

前略 子規が生きていたら「猫」を読んで何と云ふかしらぬ。
   或は倫敦消息は読みたいが「猫」は御免だと逃げるかも分らない。
   然し「猫」は余を有名にした第一の作物である。
   有名になった事が左程の自慢にはならぬが,墨汁一滴のうちで
   暗に余を激励した故人に対しては,此作を地下に奇するのが或恰好かも
   しれぬ。
子規が始めて作った俳句が「猫」を詠んでいるのに何かの因縁を感じる。

   雪降りや 棟の白猫 声はかり (明治18年)   (子規)



 子規と漱石の交友は明治22年1月,寄席通いから始まる。共に東京大学予備門(一高の前身)に入学したのは,明治17年9月であるが,当初は英語のできる同学年の一人として見ていた。
 このことは,漱石の房総紀行「木屑録」(ぼくせつろく)に,跋を寄せた子規が,「余,吾兄を知ること久し。而れども吾兄との交はりは,則ち今年一月に始まれり。」とある。
 また,漱石も「二人で寄席の話をした時,先生(子規)も大に寄席通を以って任じて居る。ところが僕も寄席のことを知ってゐたので,話すに足るとでも思ったのであらう。それから大いに近よって来た。」(ホトトギス明治41年9月)

 漱石と交友が始まった明治22年5月9日,子規は突然の喀血によって雅号を「子規」とする。
 一方漱石も,それから間もない5月25日,子規が作った漢詩文集「七草集」(ななくさしゅう)の批評を書く。その時はじめて「漱石」の号を用いる。
 漱石はその号を用いた理由を「七草集には流石(さすが)の某も実名を曝(さら)すは恐レビデゲスと少し通がりて当座の間に合せに漱石となんしたり顔に認め侍り」(明治22年5月27日,子規あて手紙)と述べている。
 またその由来を,「小生の号は,小時蒙求を読んだ時に故事を覚えて早速つけたもので,今から考えると陳腐で俗気のあるものです」(「中学世界」明治41年11月)と述べている。

「蒙求」(もうぎゅう)
中国の類書。唐の李瀚撰。 古代から南北朝までの古人の伝記・言行で相似するものを二つずつ四字韻句とし,八句ごとに韻をかえたもの。
後世まで初等教科書として用いられ,日本でも平安時代以来多く読まれた。 (国語大辞典 小学館)

<漱石枕流> :石に漱(くちすす)ぎ流れに枕(まくら)す
負けおしみが強く,自分の誤りにへ理屈をつけていいのがれることのたとえ。 (国語大辞典 小学館)

 子規と漱石の親交のハイライトは,なんといっても,明治28年の松山愚陀仏庵での五十余日の同居生活であろう。
 明治28年4月,漱石が松山中学を選らんで就職したのも,子規に対する親愛からである。その年の8月下旬,療養のため帰郷した子規をあたたかく迎え,自分はニ階に,階下を子規の「仮の書斎」に明け渡す。
 29歳の新聞記者と中学教師は朝夕に文学を語り,人生を談じ互いに啓発されながら未来の文豪が友情を深めた。
 この間漱石は,松風会員と供に俳句に熱中し,この後数多くの句を詠んでいる。

   叩かれて 昼の蚊を吐く 木魚かな (明治28年)
   菫ほどな 小さき人に 生まれたし (明治30年)   (漱石)

 虚子の生家池内家は,子規生い立ちの家の北隣にあったが,明治8年(1875) 虚子の生後まもなく北条市西の下に郷居し,のち明治14年松山に帰り,榎町に住み,翌年玉川町(現一番町)84番戸に居を定めここが虚子の生い立ちの家となった。虚子の部屋は二階にあった。
 虚子の姪,今井つる女はこの家で生まれ,のち彼の部屋がつる女の部屋になった。

 明治24年の夏,碧梧桐の紹介で子規は,ここを訪ね句会をたびたび開いた。その頃まだ19歳だった虚子が,「月のもっとも近きものを詠め」といわれて,

   名月の 毛穴も見たり けふの月  (虚子)

 と詠んで,その席にいた子規や非風,碧梧桐が目を見張ったという。
 虚子(本名清)の号は,明治24年子規によって付けられた。  当時は,この家が玉川町の東端で,東の山に月が昇ると「平野疎林瞭々として昼の如く」であった。
 「遠山に 日の当たりたる 枯野かな」の名吟は,ここからの景色をもとに誕生した。

 明治25年,学生時代の漱石が帰省中の子規の家に来た。その際虚子が,子規の家を訪問した時が虚子と漱石の初めての出会いであった。その時の印象は虚子は次のように述べている。
 「大学の制服をつけた紳士的態度の人が洋服の膝を折って座って居る。・・・何でも御馳走には松山鮨があったと思ふ。詩箋に句を書いていたのが,席上に散らかったゐたやうに思ふ」
 その後明治29年虚子が長兄の病気のため帰省中,松山中学教師であった漱石と往来し,時には戸外から声をかけ階上の虚子を呼び出し,相携えて道後温泉に遊んだりした。
 明治29年には,漱石が松山を離れて熊本に赴任する時,漱石のすすめるまま厳島(広島)まで一緒に船にのった。

 明治28年12月9日,子規は虚子を道灌山に誘い後継者になることを要請するが断られる。しかし子規は,虚子への思いを
 「今より回顧すれば虚子は小生を捨てんとしたること度々ありしならんも小生の方にては今日迄虚子を捨つる能はざりき」と親が子に対する情にたとえている。
 この子規の虚子への思いは,松風会会員の柳原極堂が創刊した「ほととぎす」を虚子が継承することによって,近代俳句の起点として今日の俳壇の形成へと導かれた。

 其の頃,子規・漱石・虚子はそれぞれ交友は,密であったが,三人が顔をそろえることは稀であった。明治28年大晦日に漱石虚子来るとして子規の句がある。

   漱石が来て 虚子が来て 大晦日 (子規)

 明治35年9月19日,子規は36歳の生涯を閉じる。
 漱石がロンドン留学中その訃報に接し,虚子あての手紙に

   手向くべき 線香もなくて 秋の暮 (漱石)

 と弔句を送っている。

 漱石は,この松山愚陀仏庵で培われた文芸観・人生観が母胎となり,俳句に活眼,やがて小説家として文壇に登場する基礎を築いた。
 漱石は松山を離れて後10年,虚子のすすめで,「吾輩は猫である」をホトトギス(明治38年1月)に掲載,ついで名作「坊っちゃん」となり,その精神は則天去私へと止場されていった。